2015.06.26 Friday 18:58

スタッフ募集

馬喰町ART+EATのスタッフを募集いたします。

※この度は、ご応募ありがとうございました。スタッフの募集は締め切らせていただきました。7/4

スタッフが出産のため、新しいスタッフを募集することとなりました。
ARTとEATに興味があり、馬喰町ART+EATのコンセプトに(https://www.art-eat.com/about/)共感していただける方のご応募をお待ちしております。

仕事内容は、箇条書きで下にまとめました。
文字にすると、たくさんありますが、実際は細かいことがもっとあります。
コンセプトを守り、実行し、続けていくことは、とても大変なことです。
そういう中で、少しずつ仕事を覚えていただき、楽しく働ける方と出会えたらとても幸せです。

絵を描いている方、料理が好きな方、食べるのが好きな方、ART+EATで展覧会を企画してみたい方、
美術が好きな方、カフェが好きな方、いろんな方がいると思います。
ぜひ、一度遊びにきてみてください。
そして、ここで働いたら自分はどうだろう?と想像してみてください。


◯時間
火水 10:00~19:00
金土   10:00~19:00/12:00~21:00
日月木祝 休み
他、展示の搬入搬出のため、月木も臨時で出勤できる方

◯内容
ギャラリー業務(搬入搬出、PC(mac)作業、DM発送、お客様への対応、梱包、在庫管理など)
キッチン業務(ホール、キッチン、発注、試作、そうじなど)

◯時給
930円から

◯年齢
40歳くらいまで(現スタッフが30~40代です。立ち仕事など、体力がいります。)

◯交通費全額支給(馬喰町に近い方だと助かります。)まかない付 お盆休み、年末年始休みあり

◯応募方法
メール(info@art-eat.com)か電話03-6413-8049でご連絡下さいませ。
面接をさせていただきます。履歴書(写真付き)をお持ち下さいませ。

 

2011.10.04 Tuesday 14:41

地面の馬


半年程前のことを振り返ってみます。
私は祖父母のいる佐賀県に三週間いました。
原発事故による一時避難です。
2歳の息子を連れて何がなんだかわからないまま飛行機に乗りました。
祖父母の家は、佐賀城跡の近くにあり、私は小学生の時をここで過ごしました。よく遊んだ公園や、夏休みのラジオ体操に行った公園に息子と散歩に行き、通っていた小学校にも、運動場脇に遊具や兎小屋があるので連れて行きました。
滑り台を二つ重ねたような大きな遊具があり、そのてっぺんに登ると校舎の中が見えまた。桜がちょうど咲く頃の穏やかな風と子供達の声、
野球のボールがバットに当たる音、
学校のすぐ横にある小川の流れる様子、
全てが夢のようでとても息苦しく感じました。
三月に起こったことをまるで知らない幸せな世界にいる自分をどうしていいのかわかりませんでした。
木の枝を拾って、馬とそれに跨がった息子の絵を大きく大きく地面に描いてあげました。
遊具のてっぺんから息子に見せてあげて、その日は帰りました。
次の日、散歩をしてスーパーと本屋に行き、最後に小学校に寄りました。
ふたりで石を拾ったり、兎に葉っぱをあげたりしました。
滑り台を滑ろうと遊具のてっぺんまで登ったとき、気がつきました。
私の描いた馬の横に、もう一匹馬がいたのです。
息子の乗ったと馬と知らない誰かが乗った馬が向き合っていました。
びっくりして、「ねえ、もう一匹いるよ!」と息子に言いました。
「ほんとだー。どこからきたんだろー?」と呑気な息子です。
私は、感動していました。
絵を描いていて初めてかもしれません。
私たちが帰った後、遊びにきた子が真似して描いたのだと思います。
日が暮れて真夜中、誰もいなくなったそこにいるのは二組の馬と人です。
その真夜中の時間を想うとなんてすてきなんだ!と思います。
そして、次の日また私たちが来て発見する。
お互い誰が描いたか永遠に分からず知り合う可能性もたぶん無い。
出会ったのは絵だけです。
私が消えた瞬間です。
でも、風や夜の空気のように、起こったことを知っている。
もしかしたら、絵はすぐに消されていたかもしれませんし、
次の日私たちは違う公園に行っていたかもしれません。
私は起こったことと、それに気づけた偶然に感謝しました。
そしてそれが、アトリエで一人で制作している時でもなく、展覧会場でもない、私と息子のいろいろある日々の中で起こったことにとても救われました。絵の生きる場所は美術館やギャラリー、キャンバスや紙の上だけではない。
鼻歌や風の音のように存在する「描く」。
私は、「描く」そのものに、
ソウイウモノニワタシハナリタイ
と強く思いました。

k

2011.06.21 Tuesday 16:06

座敷童のような。



アートイートでは様々なイベントを企画し、そして外のイベントにも参加してきました。
小腹弁当を作ったり、自家製のモザンビークのチリソースを販売したり、
多摩美の芸術人類学主催のイベント、くくのちにもスープとみかんをお届けしたりしました。
そんな中で生まれたのが、彼らです。
上から、ピリピリガール、瀬戸内海長盛園のぽんかんといよかんちゃん、
ピリボーイ、産婆さん、などなど。
水谷智美さんの展示の際に登場した、種くんというのもいるのですが、
今回ちょっと見つかりませんでした。
何かをやるごとに生まれていく彼らは無限です。
次はどんな人がきますでしょうか?
楽しみです!
この方たちがイベントOBとして影で応援してくれていそうです。。
がんばるぞ〜〜〜!!

K

2011.05.12 Thursday 16:00

ものと人

 新しい展示が始まる前は、家にいてもなんとなく作家さんやその作品のことを考えてしまいます。
この前、休みの日の昼間にお風呂に入っていました。
狭いけれど天井が高く、窓が大きいくて昼間はとても明るいです。
水色の浴槽と丸石のタイルと真っ白な壁の感じがかなり気に入っています。(ボロいですが)
お湯に浸かってぼんやり水面を見ていたら、石川さんのコップを思い出しました。
ゆらゆらとお湯が揺れているのと、コップの編み目模様が同じだなー、なんて思っていたら
なんだか胸がいっぱいになってしまいました。
水面の下には、私のお腹があって、それもいっしょに見えていたからです。
お腹には子供を産んでできてしまった編み目模様があるのです。
妊娠線というものですが、私には言葉ではなく、模様として体に刻まれたものです。

最近、絵を描きながら、自分の引く線のカタチは世界のどこかの線と一致するのではと考えるようになりました。
なぜ、そう考えるかというと、
自分がどうしてこういう線を引くのかわからないからです。
しかし、どこかでこの線を知っているから描くのだとも思います。
自分が生み出した線はどこにも無く、どこかにあるであろう線を映して絵を描いている。
そう思うようになり、絵を描くのがずいぶん楽になりました。
真剣に引いた線、感情にまかせて引いた線、どうでもいいような線、全部が許されているからです。そして世界に存在しているからです。
何かを表現したいという強い気持ちは、私には無くなってしまったのかもしれません。
絵の中での否定がなくなりました。

話がずれてる気がしますが、、実はずれていません。
お風呂で胸いっぱいになったのは、このことと関係してると思ったのです。
石川さんが作って、ものとして独立して、うちにやってきた硝子コップです。
私は、ずっとお腹にできたたくさんの溝を気にしていました。
なんだか、いろんなことが元に戻らないような気がしていました。
石川さんのコップを使ったって、何がどうなるわけでもありません。
でも、お腹に入った模様と、コップの模様が似ているだけで、
なんとなく、自分が否定されていないと感じました。
それで、胸いっぱいです。
良い器は、道具として役に立つだけではないのね、、なんて思いました。



k

2011.04.01 Friday 03:09

4月1日



何を書こうかずっと考えていました。
そして、何も思いつかずに更新します。
目をつむると、まるで瞼の裏にピタリと張り付いているように景色が見えます。
一度張り付いてしまったものは、きっと呼吸が止まるまで色褪せないのだろうなと
ボンヤリ思うのです。

私は小さい頃、保育園に通っていました。
晴れた日は、近くの公園までお散歩をしたりしていました。
記憶が曖昧ですが、森の中の道を先生とみんなで歩いていた時、
目の前のススキの群れから突然、お母さんが出てきました。
大人でさえ埋もれてしまうような背の高い、黄色いススキです。
私は幼いながらに、お迎えまでは絶対にお母さんに会えないことを理解していました。
なので、とても驚いて、とてもうれしかったんだと思います。
この記憶は、色彩とともに私に張り付きました。
きっと、とんでもなくうれしかった感情が、絵画のようにその瞬間を閉じ込めたのです。
私は、この張り付いた景色を見ると、とても幸せな気持ちになります。
たとえ、今後私と母の間に埋めがたい亀裂が入り堪え難い関係になったとしても、
ススキを揺らす空気は、景色とともに変わらないでしょう。

絵画は、これなんだと思います。写真もです。
もっと言えば、芸術はこれなのです。私が思うに。
芸術家は、そういうものを何かのカタチで現すことのできる人を指す言葉だと思うのです。

2010.12.13 Monday 10:41

朝のひかり



おはようございます。
先日のキッチンの写真をアップします。
毎日、朝の仕込みをします。
毎日同じことをします。
それぞれ役割が決まっています。
私はランチにつけるタブリと、まかないのサラダ担当です。
パセリを刻みながら、とても晴れていて、朝のひかりがとてもいいなあと思いました。
外が寒いのと、お湯をわかす湯気と湿気。
私の若めの頬がそれを敏感にサッチしています。
なぜ、そういうことをいいなあと感じるのだろう。(最初の疑問)
考えてみます。


、、、、、、、、。
考えてみると、
やはり。
私は、自分を根とした物語の中に生きているのです。
いいなあ、と思う時、実は同時に胸が締め付けられるように苦しいのだとも思います。
生まれてから、ずっといろんな風景を見てきてました。
それは、単に自分の力の及ばない見せられた風景の蓄積でもありますが、
自分の中に獲得してきたもの、とも思っています。
ひとつの風景を固まりとして記憶するのではなく、色や、音や、動き、あつさ、たくさんが集まった、たまたまのソレとして保存されているのです。
なので、その風景の要素の一つを含む違う風景に出くわした時、瞬時に無意識の検索機能が
働き、かつて獲得した景色に結びつくのです。
生きているとその要素は増えつづけ、複雑になっていきますが、
それは、何かが景色から景色へ行き来きできるようになることでもあるのです。
それは時も場所も関係なくなることなのです。
そうなってくると、自分である必要もないのかもと思います。
ただ、そこに行くのにKという人間の人生が必要なだけであって。
自由に行き来することこそが、なにより大事だと私が考えていることがわかります。
そして、それが最初の疑問の答えになります。
28年の間に私が獲得してきた要素のひとつと、その朝の仕込み風景の要素のひとつが一致したのです。
行き来する自由が確立された瞬間です。
行き来することは、自分が自由であるということではありません。
しかし、その瞬間の中身は時と場所がなくなる永遠です。
なので自由が永遠だとわかるのです。
そのことが私はとてもうれしいし、
同時に自分というものが自由になれない存在だとわかり絶望します。
なのでとても苦しいのです。
自由というものが自由にいろんなところを行き来するために、私は自分の経てきた人生を道具としてうまく生かさなくてはならないのです。
ソレを選ぶか選ばないかだけが、自分が決められる唯一のことだと思っています。
そして、私は迷わずソレを選ぶことを選びます。
自由ではないけど、豊かでありたい。
私は、そういうことを獲得して生きたい。
そのために必要だから、私は昼はアートイートで働いて、夜は絵を描くのです。






K

2010.11.17 Wednesday 16:18

雨の日、キッチンから。







寒くなりましたね。
喉にくる風邪が流行っているみたいですが、みなさまお元気でしょうか。
今日は、ランチのチキンの仕込みの仕込みをしています。
そういえば、テレビ番組で、世界一の蜂蜜を手に入れにいくというのを見ました。
どこの国かは覚えていませんが、
命綱なし防護服なしで断崖絶壁に巣をつくる蜂の蜜をとりにいくのです。
勇者であるハニーハンターは「私たちは蜂の命をもらうのだから、命がけで行かないのはおかしいだろ。」と言ってました。
おお。
私が自力で食べ物を手に入れたのは、ベランダで栽培してたミニトマトくらいです。
・・・・・。
肉を切るスタッフ津金くんを見ながら、なんとなくそんなことを思い出し、なんとなく何かを考えてしまいました。
全部がボンヤリ。
外は雨です。
ギャラリーの窓から見える建物には雨がとてもよく似合います。
こういう風景を見ると、ここもアジアなんだな、とうれしい気がします。
古いもの、汚いもの、役に立つもの立たないもの、自然のもの、人口物、
いろんなものが集合して一つの美しさを出している。
いいな〜。
新しいマンションが建ってしまったら見えなくなってしまう景色です。
う〜ん。残念。
みなさま、ぜひその前にアートイートにお越し下さいませ!
雨の日もけっこういいんですよー。


K

2010.11.12 Friday 16:30

駅での遊び


 夜、なかなか眠りにつけず、空が白んできてああ、激しく絶望。
昨日を終わらせることが出来ずに、朝、駅のホームを歩く。
毎日通る風景は、もう当たり前のことで何も思わない。
きっとずっと、これを繰り返していくんだわ。。。。

否!
こんなのつまらなすぎる。
なので、
「そうだ。ここはどこか知らない国で、私は外国人で、今初めてこの駅に降り立ったのだ!」
と思うことにしました。

バンコクの人気のない地下鉄や、北京の広すぎる駅のホーム、アントワープのカマボコ型の構内、ヘルシンキの駅は−20℃雪の中にあった!
以前旅行して知った駅たちをフル動員して、こんな駅あるんだ(驚)っていう感覚を呼び覚ましました。
ここは、ジャポンという国で、あたしは一人バクロチョウにやってきたの。
と持ち前のナルシズムで馬喰町駅の空気は一変しました。
反対側の電車がやってくる時の風が、私の人生を豊かにしている。
人々の顔も、ココハ、コウイウ人種が住んでいるのデスネ。って興味深い。
長いエスカレーターと、けっこう膝にくる地上への階段は、
これから起こることへの期待をふくらませる。

1番出口から出て、目の前にあるビルをてっぺんまで見上げて。
このビル、こんなに高かったのか、と気がつきました。
何年も通って、はじめてそのビルに対しての感想が出てきました。

そりゃあ、旅先でやっとたどりついた駅の外に出たら、そこから見える風景をまずしっかり見ますよ。
ここは、どんな街なんだ?って。

普通は毎日手に入る風景にはこれっぽっちの価値もみいださないもんね。
これは発見である。
でも、
だからといって、日常の小さな風景を大事にしよう、なんて自分に言い聞かせたりもしないのだけど。

ちょっとした駅での遊びなのです。
たまにはいいかも〜。






2010.10.30 Saturday 16:57

散歩とごはんのくり返しについて 第6回

 

最後の写真です。イラン、カシャーンにて。
イラン中央砂漠、キャヴィール砂漠の端を通るコムとケルマンを結ぶ「王の道」沿いにあるオアシス都市。
でお茶。
タイトルにもある通り、智秋さんの旅は「散歩とごはんのくり返し」。
食べて、散歩して、それを写真に撮る。
一連の流れをタンタンと繰り返して、パスポートのスタンプと撮った写真がたまっていくのだ。
誰にでも撮れそうな、普通の写真たちだ。
智秋さんが「旅のなかでも、自分うまくいってるな、って感じる瞬間があるのよねー。」
って言っていたな。
うん。
なんかすごくわかる。
絵でもおんなじだ。
いろんな画材があって、その中で何を自分がどう使うか。
一枚の絵を描いていくなかで、たくさんの選択肢があって、タイミングを見計らって、意思で作っていくのだ。
闘っているのだ。
意思とともに、見えない何かに背中を押されている。
そんな時はうまくいっているな、って感じるし、そうなるべきだったとも思う。
智秋さんの旅と写真は、絵を描くことと一緒なんだ。
踊ること、歌うこと、走ること、子供を産むこととも。
この人は、この人の闘い方をしている。
そう感じられるから、私はこの人の写真が好きだ。
ああ、智秋さんの写真集をつくりたい。


2010.10.28 Thursday 12:28

散歩とごはんのくり返しについて 第5回





松本智秋さんから絵はがきが届きました。
モロッコ、カサブランカからです。
シールが剥がれた後や、スタンプの滲んだ感じがとてもいいですね。
こんな紙切れ一枚が遠くの場所から届くってすごいなー。
集荷されて、たくさんの手紙や荷物と一緒くたにされて約2週間かかって来たんだよな、コイツハ。脱落して、行方不明になっちゃう奴もいるだろうに。
手紙だけど、手紙じゃないよお。

でで。
智秋さんに夏に会って、預かっていたイランの写真があと2枚残っていましたので、その1枚をアップします。
じゃん。


タイトルはbazarとついている写真ですが、
バザールの一角でしょうか。
道が何層かになっていて、上の道へつながる階段の入り口からの風景なのでしょう。
人が左に向って歩いているから、バザールの賑わいはきっとそちら側にあるのでしょうかね。正面のお店の丸いワッカは傘に入れずに無増さにぶら下げてある蛍光灯。
何の店なんだろう?
中が丸見えで、天井が高くて、その中で普通に過ごす人がいる。
日本だと普通は道に面した側は壁なのですが、やはり異国は違いますね。
見られてるからちゃんとしなきゃ、とかきれいにしとかないと、っていう気遣いが全くないのがなんかいいなー。
おしゃれじゃないとだめ、とか美しくなくちゃいかん、とかそういう「誰に対してこんなにがんばっているんだ?」っていう意味のないプレッシャーが無さそうでいい。
日本で、こんな風に壁がバカッとなくて、蛍光灯の使い方間違ってたりすると、変人扱いか、
こういうコンセプトで私生きてます、っていうお洒落になっちゃうもんな。
こういうのが当たり前の世界ってどんなだろう。
いいなーっておもうけど、そこを知らない私はもう既に違う世界にいきてるから、そこの本当の姿は見えないんだろう。
でも、お互い様だからね。
それぞれの場所でそれぞれ生きていくってことなんだよな。
一枚の写真から勝手に想像して、あるところに着地する。
その写真を見る前と、見た後ではやはり何かが違う。
違わなくちゃいけない訳でもないし、何かを感じ取らなくちゃいけない訳でもない。
でも、やっぱり私、写真みるの好きだなー。
自分の生きてきた物語と、どこかで交差してないかな、って期待してしまうのだな。
丁度、この写真の層になった道と道を繋ぐ階段のように。
レイヤーは違うけれど、同じ画面に存在していたい。
絵を描いている時たまに思う、私はいろんなものを愛しているなあ、てことが、人の作品をみてもたまに感じられるようになった。
どうやって描いているのだ?って技法ややり方ばかり気になっていた時より、少し見る目が出来てきたのかもしれない。
なぜ、この写真が良いのか?気になるのか?ってことを考えていく作業は、本当は、レイヤーの違う同じ位置にいる自分のことを考えているのだな。
写真から学んでいるのだ。

次回は智秋さんのイラン写真最後の1枚です。
しばしお待ちを。。。



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